「飯田紬の機」・鳥居型の形状を残す古い高機
以前、長野県飯田市に近い山間部の集落の方から譲って頂いた、
「飯田紬」を織っていたという機を復元修理する為に京都まで出かけた。
機の復元を御願いするのは、草間の藍甕の機の面倒をいつも見て頂いている機料店さんだ。
機だけではなく、様々な用具についても、困れば相談をもちかける方である。
復元についても豊富な経験を持っていらっしゃる、頼りがいのある機料店さんだ。
私だけでなく、様々な作家さんや工房でも、こちらの御世話になっている方が多い。
八月の炎天下、早速駆けつけて下さった機大工さんも加わり、
実際に機を大まかに組んでの、復元についての打ち合わせが始まったのだが、
焼けるような暑さの為、わたしは御借りしたタオルを頭から被り少しダウン気味である。
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【 Photo1: 飯田紬を織った古い高機 】
今回依頼したのは、・・・
● 欠落している部品を補って、この機のオリジナルの状態に復元する事。
そして、・・・
● 現在人(わたし)の身長に合わせて、もう一台同じ機を新たに作って頂く事。
・・・の以上二つの依頼である。
この機は南信州地域の機なのだが、往時の交易関係などの影響か、
全体の印象としては西日本型に近く小ぶりで、機台は地面に平行な東日本型の特徴を示す、
そして、オマキ・チマキの布巻き取り機の構造は、愛知県でよく見られるものなので、
東、西、愛知の折衷型とでも名付けたいような形式である。
考えれば、その事が即ち、この機が用いられていた、
飯田という地域性の特徴かも知れないとも想像できる。
飯田は伊那(三州)街道、遠州街道、秋葉街道の交わる脇往還の中心として栄えた地だと聞く。
そのような、往時の人と、ものと、経済と、文化の交流の軌跡が、
この機の形となって留められているのだとしたら、その点でも、とても面白い。
この機は時代的には、江戸末期から明治期くらいの機ではないかと思うのだが、
年号などの墨書はなかったので、詳しくは不明である。
ただ、機組みの合わせ印が、「あいうえお」ではなく「いろは」で墨書されていたので、
いろは四十七字に慣れ親しんだ世代のひとによって使用されたのではないかと思う。
時代の特定は、このような状況から推測するよりほかはない。
織り手としても古い機はとても興味深いのだが、昔の人と現代人との身体差によって、
実際に使ってみると操作しづらく織りづらいというようなことが起きてくる。
東北地方に見られるようなしっかりとした大ぶりの機なら、
この点はなんとかなるのだが、・・・。
全体に小ぶりな西日本側の古い機では、手を加え作り直さなければ窮屈に感じる。
ただ今回の場合は、オリジナルの機に資料としての価値が認められるので、
"オリジナルを復元修理したもの。"と、"現代人の身体尺にあわせて新たに作るもの。"の、
合わせて二台の機を製作する事を御願いした。
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【 Photo2:飯田紬を織った古い高機 ●後方より鳥居型の部分 】
「はた織機は神社の鳥居を模して作られている。」と唱える説があるように、
この機の場合でも、鳥居型の構造がよく残されている。
しかし、何故"はた織機"にはこのような鳥居型の構造が採用されているのか。
・・・という点について、実際にはよく判っていない。
例えば、神話と機織りの観点から、機織りの呪術性や神秘性を説き、
「昔は機織りが神聖な行為とされていた。」という点から、
このような高機の鳥居型の構造と結びつけて考える説もあるが、
しかし、一般に高機が使われるようになる以前に用いられていた"いざリ機(地機)"には、
このような顕著な鳥居の構造が認められないので、機織りが神聖な行為であったとする事と、
このような高機の鳥居型の構造とを短絡的に結びつける説に対して簡単には頷けない。
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【 Photo3:飯田紬を織った古い高機 ●鳥居構造の上部 拡大 】
何故、このような古い高機には鳥居型の構造が残されているのかという点については、
前述のような神話や呪術性などの観念的な領域にあえて踏み込まずとも、
手織り機のシステム構造という観点から説明できるのではないかと思う。
以下は私見ではあるが、わたしはこのように考えている・・・。
高機の、この鳥居型の構造部分は、吊られた綜絖と吊り框を保持している部分であるので、
織布に伴って、かなりの力がかかっていると理解できよう。
そのような力の加わる部分に、この機の場合でも、
一見して華奢に見てとれるような、かなり細い素材が充てられている。
古い機の場合、このような端材ともいえる細い素材が用いられている例が多く、
この機の場合が特別な訳ではない。
だから、このような細い素材を用いた場合、
そこに加わる力に耐え得るような構造が選びとられたと考えられるのだが、
それにしても依然として、
何故鳥居型の構造が織機に採用されているのかという点が疑問である。
この点について前述のように信仰や呪術性の意味合いから、
伝統的に鳥居の形が織機には採用されていたとするならば、
この疑問は即刻に解消し納得できるのだが、
しかし、実際では古い時代から使われていた"いざり機(地機)"には、
このような顕著な鳥居の形を示す例は認め難いので、
習俗として「機には鳥居の形を用いなければならない。」ということがあったもの
という事を想定して、信仰や呪術的な側面を引き合いに出して説明を加えても、
それでは合理的に十分な説明ができていないという印象が濃い。
だから、「織機に鳥居型の構造が採用されている理由」については、
他に求める必要があるのではないかと推測される。
その点より着目したのが、「誰が機を作っていたのか。」という点である。
例えば、"いざり機(地機)"の場合、生産用具として自作されていたことが多い。
奈良晒で有名な奈良県月ヶ瀬村の事例では、
「機は夫が作り、嫁が織る。」というような事が伝わっている。
"いざり機(地機)"の場合では、このような例が多かったであろうと想像できるが、
それより構造が複雑な高機の場合はどのようであったのであろうか。?
また、比較的構造が簡単だと思われる"いざり機(地機)"にしても、
加工が難しいと思われる部分が含まれているので、
生産用具として自作されていた機や紡織具づくりの実際について興味は尽きない。
一例ではあるが、例えば、機織り周辺の用具である"いざり機(地機)の杼"の中には、
木地師紋が施されているものも見られる。
この事から考えれば、杼などの形状加工が難しい用具や部材の場合では、
木地師に依頼していた事情が見てとれる。
さらに推論を進めれば"機"や"紡織用具"は全部を自作していたのではなくて、
加工の難しい部分を部分的に木地師などの専門職に、
依頼して作ってもらっていたのではないかとも想像できる。
また、"紡織用具"の中でも筬は素人では加工が難しく製作するのは容易ではないが、
このような生産用具についての一般的な人々が持つ様々な加工技術の水準を、
民具資料から数量化して推し量る事も難しいので、
実際には、器用な人は自作したであろうし、
手に負えない人は竹加工の職能集団や行商などから購入したのだとしか言い得ない。
ならば、このような生産用具の場合、
一般的な例として自作したのか購入したのかという点について、
判断する事はとても難しい事だと感じる。
例えば、三重県の山間部の集落の事例ではあるが、
このような竹加工の職能に携わるひとを、
わざわざ、山一つ超えた地域から呼んで来て、一二週間位の期間、自宅に泊めて、
茶や米の生産に関わる篭類を編んでもらったと聞く、
これは遠い昔の事ではない第二次大戦後頃までの話である。
地域の民間で主に自家用に用いる為の織布に関わる紡織用具の場合では、
この竹籠のように、筬や杼や或は機などにも、このような歴史の記述に残りづらい、
竹編や木地師などの移動する職能の人々の手が関わったのかも知れないし、
或は、自家製の生産用具として自作される事の方が多かったのかも知れない。
しかし、何分にも、このような事柄についての資料が少なくて詳しい事情は判らない。
ただ、染織と言う技は、様々な他の手の技に支えられて在る事が見てとれる。
また、より構造が複雑な高機の場合では、
大工職に依頼して機を作ってもらった。と伝える内容のものがあるので、
この場合では、地域の宮大工や大工の人々が仕事の合間に依頼されて、
機づくりに関わっていたことが想像できる。
この場合も、その詳しい実態については判らない事が多いのだが、
例えば、機に端材ともいえる細い素材が用いられているという事も、
本職では使用しない建築材の端材が有効活用された結果であろうと思われる。
わたしは、高機に鳥居型の構造が採用されている背景には、
これ等大工職の人々の手や知識が密接に関わっていたのではないかと考えている。
何故ならば、鳥居の構造は建築に携わる宮大工や大工の人々にとって、
熟知された構造であるという点と、
構造体として鳥居の形は鉛直方向に引っ張る力に対して十分な耐性を持つ事から、
本職の暇期に機づくりに携わる宮大工や大工の人々によって
選びとられて採用されてきたのではないかと考え、
本来は建築の木組み技法である鳥居の形が、
機づくりにも流用されて用いられるようななったのではないかと、
その背景について密かに想像しているだが・・・。
果たして、高機に鳥居型が採用される事の起源と真相はどのようなものであったのであろうか。
とても興味深いところです・・・。
●●●● 飯田紬に関するホームページ ●●●●
● 晴haru住文化研究塾さんのホームページ。
福祉住環境コーディネーターや、飯田市の景観サポーターなどもなさっている、
小畑晴美(おばたはるみ)さんの「晴haru住文化研究塾」の中のコンテンツ、
『〜職人の箱〜』で紹介されている、飯田紬の織り手 熊谷千春さん。
※ 尚、「〜職人の箱〜」を運営していらっしゃる小畑晴美さんより御知らせ頂いたのですが、
残念な事に飯田紬の織り手 熊谷千春さんは去年お亡くなりになられたそうですので、
「〜職人の箱〜」は、在りし日の熊谷さんと、飯田紬の織り手側からの話を記録した、
貴重な一片だと思われます。
謹んで、熊谷千春さんの御冥福を御祈り申し上げます。